天邪鬼の私的社会学

現代のパラダイム

いわゆるパラダイムというやつは、外から見るとわかりやすいのですが、中に入るとどこが外との境界なのかわからなくなるような具合になっています。歴史を振り返って現代から見ると理不尽でも、その時代の道理や考え方にどっぷりつかると理不尽でもなんでもなくなるというのが、その時代のパラダイムということです。その時代にとって、現代のパラダイムはその時代の「外」にあります。では、現代パラダイムの「外」とは、どういうものでしょうか。

局所的なパラダイムならともかく、時代のパラダイムはそう短期間に変わっていくものではありません。人の一生は歴史の中では短いですし、その人間の限られた視線が、現代のパラダイムの外を見据えることができるのかどうか、それも定かではありません。人の目に映る水平線の向こう、緩やかに湾曲して視野から消えていくその先に、「外」はあるのかもしれません。

だからといって、不可知論で解決できないまま放置しておくことが、常にその種の問い、「外」を問う問いに最善だということなのかというと、そうしてこなかったのも、人間の歴史です。その時代なりに、人間は足掻いて答えを求めてきました。ある種の学問は、そういった問いを真っ向から見据えてきました。

なんだかんだ言っても、人は「外」が好きなんです。

ときに、学問はそういう探求の役割を担いますが、かえって人を閉じこめる壁になることがあります。ある学者さんが現代の学問パラダイムの外に立ち位置を求めるときには、今の立ち位置を捨てる他ありません。同時に相反する立場を取ることは、論理的な整合性に対する裏切りでもあるので、それは学問ではなくなってしまいます。学者としての地位、スタンスを確立した人ほど、その地位やスタンスを脅かすであろう「外」を見ることが難しくなることでしょう。

学者さんは、学者としての良心を持つがゆえに臆病です。イギリスの精神科医、ロナルド・D・レイン、この人は異端者の臭いのする人ですが、「もしかすると人は胎内の記憶を持っているかもしれない、そう考えるしかない症例がある」ということをいうために、まるまる一冊の本を費やしていたように記憶しています。(今、手元に本がないので機会があったら、確かめます。)心理の分野は、まだ、未開の地が多く残っている分野ですので、慎重にではありますが、まだ学者さんが進んでいける面白い分野です。その未開の地から、資本主義を描き直したのが、ドゥールズとガタリということになるのでしょう。

それほどまでに特定の学問に特化しなくても、「あたりまえ」だと思っていたことを考え直すことで、なにか面白いことが見つからないかやってみる、というのが、私の一連の記述になります。文体は「難しい術語に逃げたら負け」という、河合隼雄さんの考え方が適しているのではないかと思って、できるだけそうしたいと思っています。

あと、いわゆる「トンデモ学問」にならないように、注意してはいますが、素人考えのため(あえて、そうしている部分もあるのですが)、綱渡りのように落ちるかもしれません。(ですから、書いていて面白いのですけど。)まあ、あまり、真面目に受け取らないようにお願いします。